【ひとりごと】音楽 一線を超える、その超え方が何なのか

2022年10月13日木曜日

ひとりごと

t f B! P L

*この記事は以前自分の他のブログに投稿(2021年2月10日)していたものを一部修正加筆し転載しました

【まえおき】

最近youtubeで色々な場所、とりわけ自然の中でライブパフォーマンスをしている海外のアーティストの動画を見ていて、発想や表現力が自由ですごいなあと感じます。

映像はフランス人の作曲家、サウンドデザイナー、アーティストのHelene Vogelsinger

https://modularfield.io/helene-vogelsinger-contemplation

木立の中に数台のモジュラーシンセをセッティングしてその周りにキャンドルを置いての演奏。幾重にもレイヤーされた太いシンセの音、音色、ダイナミクスが素晴らしいのは言うまでもなく、その演奏風景がアートのように内面に伝わり、躍動している。

9:01あたりから音のリリースを調整して、機材から手を放した後、まるで森の声を聴いているかのように、余韻に浸る様子はなんと絵になることか。それから映像は終わっていくのだが、そこに何とも言えないはかなさと美しさを感じる。

一方、少し前から気になっているこちらもフランスのチャンネルCercleの映像から、ドイツのアーティストBen Böhmer( ベン・ベーマー)のライブ

場所はトルコの世界遺産カッパドキア。

(個人的にドイツ人アーティストMonolinkの Father Oceanのカバーがツボ 12:52くらいから)

気球に機材を持ち込んで抑揚を絶妙にコントロールしたDeep Houseを展開。同じ場所から映す映像と離れた別の気球から映す映像で構図を変えていく様は、グルーヴィーな音楽と相まって非常に心地が良い。同じ上空にたくさんの気球も飛んでいて、音楽のもたらす浮遊感と地上を離れている浮遊感の二つを同時に体感できるのも素晴らしい。

今紹介した二つの動画には特筆すべき点として、どちらも音楽を演奏する場所としての「意外性」がおもしろい。

観客が同じ場所にいるライブではなく、まず映像ありきのパフォーマンスとして制作されているので、通常のライブ映像によく見られる見た目の「熱狂感」はないが、それに引き換える形で視聴者は「音楽」と「映像」だけに感覚がフォーカスされる。そして観客がいない(写り込まない)のでむしろ芸術作品としての価値がより高まっているように感じる。

【意外性】

ここでいう場合、普通はそういう場所に、そういう機材をセッティングして、そういう音楽を演奏しないだろうということを、既成概念を壊して実現すること。

youtubeには有名曲をすごく技術の高い演奏で手元だけ映して公開しているものが多い。最近、有名バンドの曲をピアノでカバーしている動画がおすすめに出てきた。

見てみると、真上から手もとと鍵盤がきちんと入る構図で綺麗に撮影されており、そしてリズムの狂いなく、正確に音符通り忠実に演奏していて素晴らしかった。

【カバーではなくコピー】

誰が見ても文句のつけようがない演奏。けれど、個人的に心に全く響かなかった。理由は、音楽的、映像的にまったく面白さがないから。厳密にいうと表現に「味」が感じられなかった。カバーのように演奏者のオリジナリティを加味しない「コピー」であることもその理由のひとつかもしれない。

それほど辛口に意見が言えるなら、自分が同じように演奏してみろと言われても仕方がないが、しかし、いちリスナーとして意見が言えるなら、やっぱり「いいね」をもらうためだけのパフォーマンスに感じてしまう。(もし同じ動画で感動している方がいらっしゃったら、すいません。あくまで個人的な感想です。演奏は紛れもなく素晴らしかったです)

何かが心に響いたり、突き刺さったりする理由には絶対的なものはない。それはあくまで相対的なもの。自分が心に響いた音楽が、他人も同じように響くとは限らないから。そして心に響くかどうかを左右する要素に、「演奏技術がうまいか下手か」は、その絶対的な基準でないこともはっきりしている。

つまり、「演奏が下手(技術が足りていないなど。度合いにもよると思います)だから、聞いている人は感動しない」ということはない。

例えば、技術が足りていなくても一生懸命演奏している姿に感動することは多々あるように。

個人的には「表現作品」を生み出すということは、少なくともその作品のどこか一点以上において、「心の一線」を超えないといけないのではないかと思っている。

【一線を超える】

一線を超える、その超え方が何なのかが重要だと思う。

音楽を世に出して、共感を得ることはすごく重要で、その方向は決して無視してはいけない。けれど、そこにだけ留まってしまうのは、はたして生み出す側としてどうだろうか。

youtubeで日本人がライブパフォーマンスをしている動画を見ると、クオリティは別として、そのほとんどはどこかで見たことがある映像のように思う。(音楽とパフォーマンスのコモディティ化も要因としてあるが)上記で紹介した木立の中でキャンドルを灯したり、気球に乗ってライブをしているような度肝を抜かれるような、「意外性」のライブ映像に出会ったことがほとんどない。

コモディティ化(英: commoditization)は、商品やサービスの質がメーカーごとの差をほとんど失い、まるでコモディティ(英:commodity)のような状態に見えている状態、およびそういう状態になる過程のことである。消費者にとってはどこのメーカーの品を購入しても品質に大差のない状態、およびそういう状態になることである

引用元:wikipedia

【空気の力】

日本でも多様性、ダイバーシティの在り方が社会で叫ばれるようになってから、ある程度の期間が経過している。けれど、日本で生きていて日常的なレベルでの多様性を実感することはほとんどない。 

鈴木 博毅さんの著書『「超」入門空気の研究』を読むと、その一因として日本を支配する「空気」の支配が関係しているのは想像しやすいが、芸術や表現作品を生み出すアーティスト、クリエーターでさえも、やはり他人と違うことをすることに、どこかしらに抵抗感や不安を感じているのだと思う。

(鈴木 博毅さんの著書 「超」入門空気の研究 良書です 日本人の特性が垣間見えます)

多様性がないからといって、奇抜なものだけを礼賛(らいさん)すると言っているのではなく、「もっと面白いことを、普通ではない度肝を抜くことを、やってみるのもありかな」という僕の個人的な提案です。

もちろん、上記で紹介したCercleのように規模が大きいとスポンサーの支援が必要だったりとコストの面で個人では実現が難しいとは思うが、規模の話ではなくて、本質は表現の方向の問題ではないだろうか。

【最後に】

二番煎じを否定するわけではないが、誰もやっていないことをやってみるその気概が素晴らしくて、美しく、それこそが表現の先にある「生きている」ということのひとつの証ではないだろうか。芸術家 岡本太郎さんの言葉のようでもあるけれど。

今日は辛口な内容。まじめに向き合う時も必要。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

ほせい

プロフィール

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横檬 龍彦(ヨコモタツヒコ) 音樂評論家 「すべての作品はそれが存在している時点で評論される価値がある」 世界丸音普及協会理事長 著書「なつかしくてあたらしいひびき」 「まるいおとのつくり方」(絶版) *これはすべてフィクションであり横檬は建水歩星の評論家としての名前である。なお記事内で両者は区別される

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